古代I(奈良時代~平安初期)
7世紀中頃、大化の改新により、天皇を中心とする律令国家の建設が始まり、8世紀初頭には大宝律令が制定されます。しかし、国家の認識は「山海二道(山道・海道)の果て賊奴の奥区」[続日本紀]であり、岩手県をはじめとする北東北地方は国家の領域に含まれていませんでした。
現在の奥州市にあたる「胆沢」の地名が史料に現れるのは、宝亀7年(776年)のことで、続日本紀に「陸奥の軍三千人を発して、胆沢の賊を伐つ」とあります。胆沢は蝦夷の住む辺境地域として位置づけられ、以後、朝廷は3回にわたって胆沢遠征を行い、征服を試みています。その1回目は延暦8年(789年)のことで、朝廷軍は阿弖流為らの率いる蝦夷連合軍に敗れましたが、2回目からは坂上田村麻呂を征夷大将軍とした朝廷軍が勝利しました。
延暦21年(802年)に阿弖流為と母礼が降伏し、田村麻呂によって胆沢城が造営されると、延暦23年(804年)には胆沢郡が建てられ、胆沢の地は律令国家に取り込まれることになりました。
胆沢城(詳細はこのぺージの「国史跡:胆沢城跡」の箇所をご覧ください。)は、大同3年(808年)に陸奥国府多賀城から鎮守府が移されると、およそ150年にわたって古代東北経営の拠点として機能したと考えられており、現在では「胆沢城跡」として国史跡に指定されています。
なお、江刺郡は胆沢郡から分立したとされ、続日本後紀の承和8年(841年)の条に初見されます。
資料の解説
国史跡:胆沢城跡
胆沢城は、平安時代始めの延暦21年(802年)に坂上田村麻呂によって造営された古代城柵です。大同3年(808年)に陸奥国府多賀城から鎮守府が移され、約150年のもの長い間、陸奥国の北部を統治する中心として機能しました。その大きさは、東京ドームが9つ入るほどの広さ(553,350.63平方メートル)で、築地という塀で囲まれた中に、政庁や官衙、厨などが建てられていました。
政庁では年中行事や儀式が行われ、官衙では施設を管理する仕事、厨では宴会の料理が作られていました。
軒瓦・鬼瓦(胆沢城跡出土)
胆沢城の建物の屋根は江刺稲瀬の瀬谷子窯跡(市指定史跡)で焼かれた瓦で葺かれていました。当時の人々が住む竪穴住居は屋根を茅で葺いており、瓦で葺かれた建物は朝廷の力を強く感じたと思われます。
(注意)奥州市埋蔵文化財調査センターで一部を展示しています。
漆紙文書(胆沢城出土)
当時、紙は貴重であったため、漆容器の蓋などに再利用されてから廃棄されていました。ふつう紙は土の中で腐ってしまいますが、漆がしみ込んだ紙は腐らずに残ります。胆沢城から出土した漆紙文書には、兵士が病気で欠勤することを報告したことが記されており、胆沢城に勤務する兵士や官吏の仕事の様子を知ることができます。
(注意)奥州市埋蔵文化財調査センターで複製を展示しています。
国重文:木造薬師如来坐像(黒石寺所蔵)
貞観彫刻で唯一、造像銘(像内膝部裏側)を持ち、時代の特徴をよく示すこの地方の佳作として知られます。頭躰部の大部分を桂一木造とし、内刳りを施し、背板を矧ぎつけた雄大な木取りや、両肩が張り幅広く、耳が大きく、耳たぶが外に張り出しているなど平安初期の特徴を表しています。
貞観4年(862年)の年記は胆沢城が造営された延暦21年(802年)からちょうど60年後にあたることが指摘されており、興味がもたれます。
(注意)黒石寺で一般に御開帳しています(予約・拝観料必要)。
【国重文:木造四天王立像(黒石寺所蔵)】
黒石寺では、本来は焼失した釈迦堂に安置され、釈迦如来の四方を鎮護していたと思われます。構造や材質の点でそれぞれ異なるため、いつごろの制作か専門家で意見が分かれますが、4像とも木造薬師如来坐像と同じ平安時代初期の制作と伝わります。
(注意)黒石寺で一般に御開帳しています(予約・拝観料必要)。
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更新日:2023年09月29日