中世(平安時代末期~安土桃山時代)

更新日:2023年09月29日

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中世(平安末期~安土桃山時代)

 奥州合戦に勝利した源頼朝は、文治5年(1189年)9月に鎮守府の故地において「吉書始」の儀式を行い、軍功のあった家臣を郡・郷・荘園などの地頭職に任命して奥羽を鎌倉幕府の直轄支配下におきました。吾妻鏡によれば、胆沢・磐井・牡鹿郡以下数ヶ所を鎌倉御家人の葛西清重が拝領しており、この中に江刺郡も含まれていたと考えられます。

 清重は、同時に奥州総奉行・検非違使に任命され、奥州御家人の指揮に当たっていますが、所領管理には葛西氏の家臣団があたりました。このうち、葛西氏の有力家人であった柏山氏が胆沢郡を、江刺氏が江刺郡を領していますが、両氏とも譜代の家臣を小領主として各地に配置して所領を治め、次第に在地領主化していきます。

 なお、文治6年(1190年)に陸奥国留守職が多賀城に設置され、伊沢家景(後の留守氏)が任命されていますが、江戸時代の水沢領主の先祖に当たります。 葛西清重の職務が軍治長官にあたるのに対し、留守氏の職務は民政長官にあたるものでした。

 南北朝が統一した応永7年(1400年)、室町幕府は大崎満持を奥州探題に任じました。 これにより、葛西氏は本拠地を平泉から牡鹿郡に移すこととなりましたが、在地領主化した柏山氏と江刺氏は独自の勢力を保ち、主家である葛西氏以上の勢力を持つようになります。そのため、葛西領内で反乱や内乱が続発し、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に葛西・柏山・江刺の各氏は参加することができませんでした。

 翌年、秀吉は奥州仕置を行い、小田原不参加の諸氏を追放します。400年に及んだ奥州の中世は葛西氏とともに始まり、終わりました。

資料の解説

県有文:木造如意輪観音坐像(正法寺所蔵)

密教通形の六臂半跏の如意輪観音像で、13世紀後半から14世紀初頭(鎌倉時代後期)頃の作と推定されます。宋風の面相を示し、玉眼を嵌入する本格的な鎌倉彫刻であり、その制作は都と推定されます。正法寺が14世紀中葉に東北地方初の曹洞宗寺院として開かれたことを考えると、この像が何らかの由縁で本尊として当地に運ばれたと考えることができます。

光背の前に蓮華の台座に座り宝冠を身につけ4本の手を持った正法寺所蔵の木造如意輪観音坐像の写真

県有文:木造如意輪観音坐像(正法寺所蔵)

県有文:絹本著色開山良韶画像(正法寺所蔵)

正法寺を開山した無底良韶禅師の自画自賛と伝える絹本一幅の掛物装です。作者は不明ですが、上方に良韶による自賛があり、小幅ながら禅宗の師から弟子へ法統を嗣ぐ時に与える頂相(禅宗の祖師像)としての形式に従って描かれています。良韶禅師の死の前年にあたる延文5年(1360年)の作成で、当地方における禅宗文化のあり方を示すものとして貴重です。

法被をかけた曲録に袈裟をつけ、椅子に腰かけた無底良韶禅師の絹本著色開山良韶画像の写真

県有文:絹本著色開山良韶画像(正法寺所蔵)

県有文:絹本著色十六羅漢像(正法寺所蔵)

県内に残る本格的な中世絵画として極めて優れた作品です。南北朝時代の作とされ、16幅ともほぼ満足な状態で保存されています。その図柄は京都建仁寺の重要文化財十六羅漢像に画風が似ており、正法寺の一組も同じころの作品と考えられます。

岩に腰掛け右手に朱色の着物を着た小人を大事そうに持ち見つめているオーラを纏った絹本著色十六羅漢像の写真

県有文:絹本著色十六羅漢像(正法寺所蔵)

国重文:留守家文書

留守氏は奥州藤原氏の滅亡直後の文治6年(1190年)3月に陸奥国留守職に就任し、奥州に入部した鎌倉御家人の伊沢家景に始まります。家景の子孫は陸奥国府があった多賀城周辺の地を所領し、姓を職名の留守と改めて奥州で有数の豪族となりました。

その後、伊達氏に服属して一門となり、江戸時代には水沢城に入って幕末を迎えたことから留守氏(水沢伊達氏)が伝来してきた古文書類は、奥州市に遺されることとなりました。その内、中世文書が東北中世史研究に不可欠な文書群として重要文化財に指定されています。

留守家文書のうち、観応元年五月に書かれた恩賞請求の手続を示した五月日留守家任申状 の写真

国重文:留守家文書

国有民:黒石の十三塚

15~16世紀に成立展開した十三仏信仰に基づいて築造されたものと考えられており、往古の黒石寺境界領域に東西方向に総延長169.8メートルの範囲で横一列に並んでいます。岩手県下では唯一の完全例であり、東北地方でも仙台市の例と合わせて2例のみと当時の民俗信仰を考えるうえで貴重です。

左側に細い通路、右側に木が生い茂った林がある間に、土が盛られた塚が一列に並んでいる黒石の十三塚の写真

国有民:黒石の十三塚

県有文:巡礼納札(玉崎駒形神社所蔵)

上部に日天(赤丸)、月天(白丸)と十一面観音坐像を鮮やかに彩画する観音百ケ所霊場巡礼結願の札です。岩手県唯一の結願木簡であり、中世資料として貴重ですが、この百ケ所霊場とはどこであるのか。今は全く伝えられていません。

右に赤丸(日天)、左に白丸(月天)をつけ、上部に光背の前で蓮華の台座に座った十一面観音坐像が描かれ、下に銘文が書かれた五角形の巡礼納札の写真

県有文:巡礼納札(玉崎駒形神社所蔵)

県有文:まいりの仏

  • まいりの仏(善導大師画像) 延文4年(1359年)
  • まいりの仏(孝養大師画像) 明応3年(1494年) 修理銘
  • まいりの仏(孝養大師画像) 文明2年(1470年)

中世の寺院は地頭の菩提寺だけであり、庶民には関係がありませんでした。庶民は一族ごとにまいりの仏を中心に信仰を求め、総本家の仏別当が司祭者となって引導を行いました。岩手県下すべてのおがみ月が10月に決まっていることから十月仏といっている地方もあります。

江戸時代には庶民の全てが寺院の檀家となったことから救済的機能は衰え、慣行としておがみ月だけが残り、現在まで続いてきたものと思われます。

橋の上で大師が両手を重ねて念仏を唱えて右斜めに立っている様子を描いた、まいりの仏の写真

県有文:まいりの仏

市有民:板碑

  • 館山の板碑(延慶の碑) 延慶4年(1311年)
  • 駒籠の板碑(嘉暦の碑) 嘉暦元年(1326年)
  • 館山の板碑(康永の碑) 康永2年(1343年)
  • 七日市の板碑(延文の碑) 延文6年(1361年)
  • 柿ノ木の板碑(貞治の碑) 貞治3年(1364年)
  • 寺田の墨書板碑 室町時代初期

板碑とは、主尊の種字を刻んだ石製の塔婆のことで、全国的に13世紀にはじまり14世紀に盛んになった信仰の形です。関東地方で薄い板状の切石に刻まれていることが多いため板碑と呼ばれます。主尊種字に加え、死者の追善供養や自らの後生往生の碑文が刻まれますが、衣川春日森の板碑には墨書の碑文が遺されており、主字のみの板碑が数多くあることの理由の一つと考えられます。

奥州市では54基の板碑が確認されており、主に14世紀のものです。

(注意)駒籠の板碑はえさし郷土文化館で展示しています。

竹藪の中に主尊種字などが刻まれた高さの違う板碑が並んで立っている写真

市有民:板碑

国重文:正法寺本堂・庫裏・惣門(現在の建物は近世の再建)

正法寺の正式名称は、大梅拈華山圓通正法寺と呼ばれ、南北朝時代の貞和4年(1348年)に無底良韶禅師が開いた曹洞宗の寺院です。無底良韶は能登(石川県)の出身で、35歳の時に時の領主、黒石越後守正端らの援助を受けて、黒石村に七堂伽藍を建てました。

正法寺は奥羽二州における曹洞宗の本寺で、かつては永平寺、総持寺とならぶ曹洞宗第三の本寺として、多くの末寺を持っていました。六度の大火に遭って、現在の本堂は文化8年(1811年)の再建ですが、畳数にして166畳分もあるという茅葺の屋根は現在も威容を誇っています。

(注意)正法寺は一般に公開されています(拝観料必要)。

手前に石灯篭が設置され朱色に染まった木々が立つ庭園があり、奥に入母屋造で茅葺の大屋根を備えた正法寺の写真

国重文:正法寺本堂・庫裏・惣門(現在の建物は近世の再建)

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〒023-1192岩手県奥州市江刺大通り1-8(江刺総合支所4階)
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